04.旅立ちの日

 乾いた空気が頬をなでる。見上げた空は抜けるように青く、遠くに薄絹のような雲が見えていた。まさに外出日和、旅立つ朝は今だと、目に見えぬ誰かがささやいているような気さえしてくる。似合わぬ感傷に浸っていたディランは、ふっとひとり、苦笑して振り返った。
 民家と見まごうような、けれど民家よりは立派といえるだろう、細長い建物がある。『暁の傭兵団』に『家』と呼ばれて親しまれ続けた建物は、今日も変わらずたたずんで、ディランを見おろしていた。――まるで、仕事に出る彼を送りだすのと同じように。
 鞄を持つ少年の手に、力がこもる。今回は、仕事とは違うのだ。一人きりの、放浪の旅の始まり。いつまた、ここに戻ってくるかも、こられるかもわからない。傭兵団という集団を抜けだすことにためらいはなかったが、一抹の寂しさが、胸の内によぎった。
「なあに、辛気臭い顔してんだ、こら」
「うわっ!」
 勢いよく頭をはたかれてのけぞる。少年が頭を押さえて振り返ると、いつの間にか、女がひとり、立っていた。ぱさついた黒髪を乱暴にまとめ、麻の上下を身にまとう彼女は、無骨で粗野な空気を周囲に振りまいている。傭兵なのだから、そのくらいがちょうどいいのかもしれないが。
「師匠……」
「もっと堂々としてやがれ。見送りに来たかいがない」
 ディランが苦い声で名を呼べば、ジエッタは尊大に腕組みをする。どう答えたものかと迷い、視線を彼女の後ろに投げたディランは、ぎょっとした。開け放たれた扉から、団員たちがぞろぞろと出てくる。彼らは弟分の表情に気づくと、悪戯っぽく笑って、手を振った。
――『見送りに来た』のは、師匠だけではなかったのだ。
 やいのやいのと叫びながら、手を振る傭兵たちを見ていると、目がしらが熱くなる。ディランは軽く唇をかんで、こみあげたものを飲みこんだ。
 顔を上げる。蒼穹は、美しい。思いっきり息を吸えば、爽やかな空気が体の中を通り抜ける。
 大丈夫だ。できる。踏み出せる。知らない自分が、そうささやいた気がした。
 気がつけば、心の靄は薄らいでいた。ディランが顔を正面に戻せば、視線があったジエッタは、口の端をにやりと持ち上げた。ディランは小さくうなずいて、両足に力を込めた。
「……みんな」
 声を上げると同時、傭兵たちの声がやむ。ディランは、それを待って、言葉をつむいだ。
「記憶もない、身寄りもない、こんな怪しい子どもを、受け入れてくれてありがとう。育ててくれて、ありがとう」
 声が震える。それを、気合で押さえる。
「俺、いったんここを出ていきます。外に出て、自分ともう一度向き合ってきます。今度帰ってくるとき、少しでも強くなっていたいから」
 いつになく神妙な顔をしている傭兵たちを見回して、ディランは唇をこじ開ける。
「もう一度、帰ってきたとき……また俺を受け入れてくれませんか」

 一瞬の、静寂。
 そのあとに、叫んだのは誰だろう。
 ディランが答えを見つける前に、声は連鎖した。
「あたりまえだろ!」
「なにまじめくさって、今さら確認なんかとってんだ」
「もうとっくに、おまえは傭兵団(うち)の一員だ!」
 傭兵たちの声はやまない。ディランが呆然としていると、その髪を、首領の手がかき混ぜた。
「師匠……」
「ほらな?」ジエッタは、得意げに片目をつぶる。少年のような首領を見上げ、ディランは口もとをほころばせた。
「せいぜい、世間の荒波って奴にもまれてこい、馬鹿弟子。もし疲れたら、ここに戻ってきていったん休めばいいんだ」
 いつもどおり力強く、それでいていつになく優しい言葉に、ディランは驚きを隠せなかった。目をみはって、けれどそれから、言葉の意味をかみしめて、深くうなずいた。師匠の手が離れると、居住まいを正して、もう一度傭兵たちと向きあう。
 ゆっくりと、頭を下げた。
「行ってきます!」
 しぼりだした声は、空気を打って、天に響いた。ファイネ一帯に聞こえてしまったかもしれない。一瞬ひやりとしたが、すぐにまあいいかと思いなおす。笑顔で拳を突き上げる仲間たちを見ていると、自然と、そんな気分にさせられた
 陽気さと涙の入り混じった声に送り出されて、ディランは『家』に背を向ける。彼方へ続く空は、やはり青い。その色に胸を締めつけられながらも、少年は最初の一歩を踏み出した。