第六話 月夜・2

 きっちり閉館時間まで調べ物をした二人は、宿へ戻った。今度は男女のけんかの場面に出くわすこともなかった。安堵の息をこぼしつつ旅装をといた二人は、寝台の上にいた。
「うう〜。文字がぐるぐるしてるよぉ……」
 リネが、ごろごろと転がりながらうめいている。ソラはそのかたわらで、黙って眉間のしわをほぐしていた。さすがに長いこと小さい文字の本ばかりを読んでいると目が疲れる。
「結局、魔女のことも、理想郷のともわかんなかったね」
「そうだな。……明日、まだ見てない書架を探してみよう。それでもなにもわからなかったら、また考える」
「そうしよー」
 少女は拳を突き上げる。それに笑みを浮かべながらも、ソラの心はなかなか晴れない。
 今のところ、魔女やトルガ森については、おとぎ話のようなものしか見つけていない。このまま図書館で資料検索を続けて、手がかりが得られるかは微妙なところだ。だが――もとより、そこまで期待はしていなかった。世の中では、魔女も、理想郷も、忌み子も、おとぎ話の産物扱いなのだから。
「ま、ゆっくりやればいいさ」
 みずからに言い聞かせて、ソラは背中を伸ばした。
 そのとき。いきなり、隣の部屋から女の怒声が響いた。ソラとリネは、顔を見合わせる。どちらからともなく、壁のむこうのくぐもった音に耳をそばだてた。
 若い女が、金切り声で何事か叫んでいる。男がそれをなだめているが、取りつく島もないようだ。
「うひゃっ!」
 甲高い声が届くたび、リネは妙な声をあげる。
「な、なんだろ……」
「さあ。またけんかかな?」
 呟いて、ソラが思い出したのは、最初に宿屋に来たときに見た男だ。よく考えたら、合間に聞こえるこの声には、なんとなく覚えがある。ソラが顔をしかめたとき、隣の部屋の扉が乱暴に開かれて、怒りすら感じられる荒々しい靴音が聞こえた。靴音は、あっという間に遠ざかり、やがてまったく聞こえなくなる。
 二人は、呆然とした。――先に、我に返ったのは、リネだった。彼女は憤然として立ちあがると、寝台からとびおりる。
「もう、なんなんだよー」
「あっこら、リネ! うかつに――」
 遅れて正気に戻ったソラは相棒をたしなめたが、間に合わない。少女は扉に飛びついて、それを前へと押し開いた。まいった、と頭をかきながら、少年は少女の後ろにつく。水色の頭をはたいてから、外をのぞき、目を丸くした。
「あれは……」
 二人から見て、左側。開けっぱなしの扉の前に、青年がいる。彼は立ちつくして、階段の方をぼうっと見ていた。癖のある栗毛の下、同じ色の瞳には、濃い憂いがたたえられている。彼はしばらく放心していたが、そうしていても連れが戻らないとなると、ため息をついて頭を抱えた。
 ソラたちはしばらくその様子をうかがっていたが、青年が二度目のため息をつくと、リネが駆けだした。
「お兄さん、どうしたの?」
 いつも以上に幼い表情で、少女は青年を見上げる。彼は驚きながらも少女を見下ろすと、困ったようにほほ笑んだ。
「ちょっと、連れとけんかしちゃったんだ。心配させたかな、ごめんね」
「ううん、いいよ。でも、なんでけんかしちゃったの?」
「それは――」
 青年は、言いかけて口を閉じる。水色の髪の少女は、つぶらな瞳をさらに大きくした。
「さっきから、お兄さんのまわりで、怪しい光がふわふわしてるのと、関係あるの?」
 無垢な問いかけが、たとえようのない翳りを帯びる。青年は顔をひきつらせて、後ずさりした。さすがにまずい、と思ったソラは、大股でリネの背後に歩み寄り、先ほどよりも強く頭をはたく。
「あいたあ!」リネは、叫んだあとに涙目で後ろをにらんだ。だが、にらまれたソラは平然と無視して青年に頭を下げた。怖がられる前に、対処しなくてはならない。
「突然すみません。連れがご迷惑をおかけして」
「あ、いえ」
「この子、まじない師の卵でして……ふつうの人の目には見えないものが、見えることがあるんです」
「は、はあ」
 青年は、呆けた顔で奇妙な二人を交互に見る。ソラはというと、リネの頭をつかんで軽く揺らしていた。余計なことはするな、と声なき声で言い聞かせる。けれども彼女は、納得いかないとばかりに、彼をにらんできた。
「あ、あの!」
 険悪なやり取りを終わらせたのは、ひきつった声だった。二人はそれぞれ驚いて、青年をまじまじと見る。四つの目に見つめられた彼は、目を泳がせていたが、やがては意を決したのかおもむろに口を開いた。
「僕の連れを、助けていただけませんか」
 ソラとリネは、お互いの間抜けな顔を見合わせた。

「連れを助け……?」
「どういうことー?」
 二人の旅人は、奇妙なお願いにそろって首をかしげた。青年は言いにくそうに顔を歪めたものの、ぽつぽつと語り出す。
「僕と、僕の連れ――『彼女』は、旅の者です。ずいぶんと長いこと、一緒に大陸を回っています。仲はいい方なんですが……あるときから、『彼女』の様子がおかしいんです」
「様子がおかしい?」
 ソラが繰り返すと、青年は沈痛な面持ちでうなずいた。
「数か月前、行商人から手鏡を買ったんです。きれいな装飾がされた鏡で、『彼女』はそれに一目ぼれして購入したんです。ですが、使ってすぐに悲鳴をあげて、僕のところに泣きながら飛んできました。そして言ったんです、『私じゃないものが映ってる』って」
 ソラとリネは、お互いに目配せしていた。――どこかで聞いたような話だ。
 二人の静かなやり取りを、怪しまれているものと思ったらしい。青年は、口早に付け足した。
「本当なんです。僕も最初は信じられなかったんですが、鏡を見たら、確かに見たこともない化け物が映っていました。僕は『彼女』に鏡を捨てるよう言ったんですが、『彼女』は捨てませんでした。……怖くて、捨てるに捨てられなかったみたいで」
「魔よけのお人形を部屋に置いてみたけど何もなくて、でも祟られそうで捨てられない、みたいな感じかな」
「魔よけのお人形ってのは、はじめて聞いたけど、多分そんな感じだな」
 リネなりの気遣いなのか、大真面目でわかりにくいたとえを出してきた。ソラは相槌を打った後、青年に続きをうながした。青年はうなずいたが、必死さのあまり燃えるようだった瞳には、薄い影がさしている。
「それから『彼女』は、少しずつおかしくなっていきました。話をしていても上の空で、意味のわからない独り言が増えて。そして、なぜか鏡に執着するようになったんです。最初のような『怖くて捨てられない』という感じから鏡を『手放したくない』という感じに、変わっていきました。僕がいくら鏡を捨ててくれと言っても、わめき散らして怒るばかりで、聞く耳を持たなくなってしまって」
 ソラは、息をのんで、青年を見つめた。
「ひょっとして、昼間の口論も……」
「はい。ここ数日は、何を言っても『こんな姿は嫌だ』と叫んでばかりで、会話もままならないんです。……ついさっき、とうとう、一人で外に飛び出してしまった……」
 青年は言うなり、右手で顔を覆った。泣きたいのをこらえているように、見えた。
「なるほど」ソラは、深くうなずく。これで、合点がいった。
 今にも泣き崩れそうな青年と、沈思黙考する少年のおかげで、宿屋の廊下の一角に重い空気が立ちこめる。――沈黙の暗雲を吹き飛ばしたのは、少女の小さな呟きだった。
「その手鏡って、『狂わせの鏡』じゃないのかなあ」
 男たちは、あっけにとられて少女を見た。ただ、その心境はお互いにまったく違っている。
「あの、狂わせの鏡って?」
「図書館で見た絵本のなかに出てきた鏡です。持ち主を狂わせるから、そう名付けられたらしいです」
 ソラは不安げな青年の問いに答えてから、その視線をリネの方へずらす。
「でも、あれは絵本のなかの話だぞ。本当にあるのか」
「わかんない。でもさ、魔女は本当にいるって、ジルテアさんが言ってたでしょ。あと、神様も。だったら、絵本だから嘘だって、思いこまない方がいいよ」
「それは……」
 鋭い指摘に、ソラはうめいて、押し黙る。確かに、魔女の実在はジルテアが断言していた。「神」とやらについても、存在するかのような会話をまじない師としていた。それに、何より、ソラ自身が幻獣と人間の子どもという、現実離れした存在なのだ。みずからが、おとぎ話の体現者のようなものだから、どんな迷信もないとは決めつけられない。
 それに――
「もし仮に、『狂わせの鏡』が実在して、あの話も本当だったとしたら……」
 ささやく少年の横で、少女が不敵に笑う。
「うん。魔女に近づけるかもしれないよ」
 明るく無邪気な言葉に、ソラは小さくうなずいた。これで、二人の意見は一致した。少年は、なおも不安げな青年を見すえ、堂々と言う。
「――わかりました。俺たちでよければ、手伝わせてください」
 茶色い瞳が、輝いた。

 三人は、さっそく、黄昏時のポルトリートに繰り出した。もうすでに通りは暗く、人通りもまばらだが、訊きこみをはじめることにする。『狂わせの鏡』が青年の言う『彼女』になんらかの影響を与えているならば、一刻の猶予もないのだ。
『彼女』は、旅装のまま飛び出していったらしい。となれば、街では目立つはずだと、ソラは踏んでいた。旅の女性が一人で、しかもこの時間帯にうろつくことは、めったにない。
 予想どおり、目撃情報はすぐに得られた。だが、いくら人に尋ねても、『彼女』の行き先の手がかりはつかめない。宿を飛び出した『彼女』が、ひどく錯乱していたことがわかっただけだった。
 空に白い月を見て、三人は途方に暮れる。事態が動いたのは、そんなときだった。
「ああー。その人なら、さっき見かけたよ」
 帽子を目深にかぶった男が、それを手でずらしながら、ぼそりと言う。三人は唖然としたあと、猛然と食いついた。
「どっちに行ったかわかりますか!」
「え? あ、ああ。西の方に、ふらふらと。あのまま行くと街の外に出ちまうから、今外に出るのは危ないって声かけたんだが、聞こえなかったみたいでな。そのまま行っちまった。湖でも見に行くのかね」
「湖?」
 男二人が、うわずった声で反芻する。リネだけが、顔をこわばらせた。